天人其の功を成す

水路網がどのように形成されてきたのか、その歴史を簡単に振り返ってみましょう。言うまでもありませんが、この地球を10周する長さの水路はすべて人の手によって造られてきたもの。誰かが計画し、調査し、幾万という民が鍬や鋤で成しとげてきた功績です。
天人其の功を成す。天人とは天の意を授けられた人と解釈できます。何百年にわたり莫大な恩恵を与えてきたその功は、名もなき民ながら天人と呼ぶにふさわしいと言えるのではないでしょうか。

【古代~中世編】

国造りは水路造り?

世界最大の仁徳天皇陵(大阪府堺市)。ある試算によれば、1日7,000人が働いても15年かかる大工事らしい。

弥生人は川の下流にできた湿地帯に稲を植えていましたが、鉄器の出現により地面を掘るのが容易になると、川から離れた場所に水路を造り始めます。水路の誕生です。
水路を造るには多くの人が要るため人は集団で暮らし始め村を形成します。村は、地域部族、地方のクニへと争いを経て統合され、やがて大和政権が誕生します。
統一政権によって水田開発は広範囲かつ計画的に拡大しました。
当時の土木の技術水準は、仁徳天皇陵が雄弁に物語っています。同天皇は堤、ため池、水路の建設など積極的に新田開発を行ったことが『古事記』や『日本書紀』に記されています。聖徳太子もまた広大寺池や五ヶ井用水など、大和地方や播磨で大きなため池や水路を造っています。
いずれにせよ当時の政権は天皇自らが新田開発を行い、力を蓄えたことがうかがえます。国造りは新田造り、つまりは水路造りでした。

条里制から荘園制へ

香川県の満濃池。貯水量1540万㎥を誇る日本最大のため池。

大化の改新によって公地公民制が確立し、全国の農地に条里制がしかれます。しかし、農地も民も朝廷のもの。開発の意欲は沸かないまま人口は増え続け、農地が不足し始めます。これを補ったのが三世一身法(開墾農地は三代の私有)でしたが、三代は永代へと代わり、やがて荘園制として定着します。
古くからあった中央貴族や有力寺社が盛んに水利開発を行って富を蓄えます。藤原一族の栄華も荘園がもたらしたものでしょう。
このころの水利開発として代表されるのが日本一の規模を誇る四国の満濃池。空海の修復でも有名です。荘園制は畿内よりも北陸や四国など地方の開発をもたらしました。ところがこの荘園制度は、その後400年間にわたって日本を騒乱の渦に巻き込むことになります。

武士政権の誕生

中央の支配があまり及ばない関東などでは、盛んに在地領主が自力で開発を行い次第に力を蓄えていきます。租税をめぐる関係は入り乱れ、貴族や寺社と対立してあちこちでいさかいが発生するようになります。
彼らは農地の警護のため集団武装し、徒党を組みます。各地の武士集団は互いに団結し、平氏と源氏の二派に統合されます。やがて源平の合戦を経て鎌倉幕府が成立。
鎌倉幕府とは要するに自分たちの開墾した農地の支配を朝廷に認めさせるというものでした。
新しい武士政権も争いが絶えず、御家人、国司、守護、地頭、名主等々と農地の支配は朝廷系と武士系が入り乱れ、さらに、惣村(農民の自立集団)、比叡山などの僧兵、一向一揆などが加わって、日本中が騒乱の渦に巻き込まれていきました。いわば、農地の支配をめぐる歴史的混乱期でした。
しかし、鎌倉幕府は国や地方ごとに要職を配置したため、流域ごとの水利開発が行われたことは注目されるべきでしょう。

戦国大名の功

室町時代の後期になると、朝廷の力も幕府の支配力も有名無実と化します。代わって台頭してきたのが武力を背景に地方で力を蓄えた各地の豪族たち。彼らは大きな名主という意味で大名と呼ばれ、日本は群雄割拠する戦国時代に突入します。
皮肉なことに、城や掘を造る技術の飛躍的向上が大規模な水田開発を可能にしました。戦国大名の多くは優秀な土木家でもありました。武田信玄、加藤清正、木下藤吉郎(秀吉)……。彼らが行なった治水、利水(水路)の工事は、400年経った今もあちこちに残っています。

【近世編】

倍増した農地

徳川幕府は各地の大名による土地支配体制を確立、年貢米をもって各国の財政的基盤としました。各国では米を増産することが政策の根本となり、戦に費やされていたエネルギーは大規模な新田開発へと向かいます。
大きな河川の氾濫原がその主な対象となりました。例えば、徳川初期に行われた利根川の流路変更。古い流路周辺には今も代表的水路である葛西用水を造り、元の利根川の氾濫原は黄金色の稲穂がたなびく広大な新田へと変貌しました。
秀吉の頃、150万町歩(ha)であったわが国の農地面積は、元禄時代に約300万町歩と百年で二倍になります。農地の増加とともに人口も増加。江戸初期に1,200万人程度であったわが国の人口は、百年後には約3,000万人に達しました。

安曇野の横堰(黄色の線)。扇状地のため水がもぐり、従来の水路網では水が恒常的に不足。特に下流の農村は貧水地帯であった。臼井弥三郎は等高線沿いに別な川から水路(下の黄線)を引き、縦の水路に補給した。そして、同じ方式で庄屋・等々力孫一郎は代表的水路「拾ケ堰」(中央の黄線)を完成(1816年)。黄線の水路の下側からはたくさんの水路が派生している。これにより安曇野は穀倉地帯へと変貌した。こうした横堰の工法は、戦後の香川用水事業でも採用されている。

各地で発生する水争い

昔の堰の構造。丸太の木組みに枝をつけ、ムシロや草で水を塞き止めた。

しかし、これだけ人口が増え農地が増加すると、困った問題が浮上します。水路は主に川に設けた堰から水を引いているので、川の水量が少なくなった時には不足するのです。
昔の堰は右の写真のように、木組みに枝やムシロなどを敷きつめて川を塞き止める粗末な仕組み。通常、一本の川からは上流から下流にかけて幾つもの堰がありました。
渇水時、上流の堰が水を取ってしまうと、下流には流れません。水が引けないということは一年の収穫がゼロになることを意味します。
下流の集落は上流側の堰を壊して水を流せと要求します。しかし、上流側もギリギリの水量、堰を壊したら自分たちが飢えることになる。
議論が尽きると、村の人たちは手に鎌や鋤をもって実力行使。乱闘が始まります。流血の惨事となったこともたびたびありました。

先駆者の偉大な遺産


円筒分水工。この分水工は三本の水路に公平に水を分けている。見える仕組みが秀逸である。

八代将軍吉宗とともに紀州から来た伊沢弥惣兵衛為永は新田開発奉行として様々な功績を残しました。彼は川を直線化し強固な連続堤で流路を固定します。これにより遊水池もなくなり、放置されてきた三角州地帯の開発が可能になります。この工法は紀州流と呼ばれ、見沼代用水に代表される大河川を利用した大規模灌漑システムが確立されます。
こうして江戸時代には、台地等を除くほとんどの平野が開発され、ほぼ現在の耕地形態となりました。しかし、前述した水争いだけはどうにも解決できません。
これは日本の国土の宿命と言ってもいいでしょう。日本の河川は急流です。おまけにモンスーン気候のため、図のように川の流量が激しく変化します。特に稲の生育時の夏には洪水と渇水を繰り返しました。
しかし、こうした死者が出るほどの争いと調停を通して、次第に水利協定が結ばれ、日本独特の複雑高度な水秩序が形成されていきます。
したがって、こうした緊密な水秩序の中で新しく水路を造るのは至難の業でした。磔台を立てて水路開削に臨んだ安曇野の臼井弥三郎、家が燃やされてもトンネルを掘りつづけた加賀の西野庄与門、自ら進んで人柱になった青森の堰八太郎左衛門……。各地の水路開削の歴史をたどると、必ずといっていいほどこうした「天人」とも呼ぶべき先駆者に出会います。資産を使い果たし、石もて追われた庄屋、切腹を命じられた豪農。あるいは工事で犠牲になった名もなき蒼茫の民。今は近代化されて素掘りの水路は見かけなくなりましたが、その流路は昔のままです。日本の水路のほとんどは、こうした先人の気高い墓碑銘の上に築かれてきたのです。

【近代編】

明治の躍進

日本が維新後わずか数十年で近代国家を創りあげた要因に農業生産力の高さが挙げられます。特に綿や絹を原料とする繊維産業は世界に躍進し、日本の近代化を大きく牽引しました。鉱物資源のないわが国にとって農地は最大の資源でした。
明治政府は、職を失った士族救済のため各地で開墾を奨励します。静岡の牧之原、千葉の印旛郡、山形の松ヶ岡、栃木の那須野ヶ原……、そして、手つかずであった北海道の開拓に乗り出しました。
中央集権となり、これまで各藩の財政では出来なかったプロジェクトにも取り組みます。安積疏水、那須疏水、明治用水……。いずれも水の届かぬ台地であり、山を越え、谷をまたいでの長大な水路でした。
多くの外国人技術者を雇い、彼らの近代的工法に学びます。しかし、機械も石油もない時代、工事は江戸の頃とさほど変わらぬ人力でした。
わずかながら今も残る明治の水利建造物は、彼らの熱い志を映してか格調高い意匠にあふれ、見る人の胸を打ちます。

石川県手取川の七ヶ用水合口工事の通水式。明治36年、隧道をほとばしり出る水に、万雷のような歓声がこだましたという。写真提供:七ヶ用水土地改良区

戦後の食糧難

一方、所有権を認められた農民は生産意欲が向上し、村の指導者のもと、土地改良事業が盛んになります。個人の分散した農地面積を集計し、同じ面積の四角い農地として区画し直す。現代のほ場整備事業の萌芽です。
また、電気ポンプの出現は水利用に革命をもたらします。地下水を利用した灌漑や、岡の上への給水、湖などから汲み上げる逆水灌漑。さらにセメント、ダイナマイト、石炭や石油などの新しいエネルギー、機械による岩盤の掘削などより高度な水利事業を可能にしました。

こうしたわが国独自の水利技術の集積に加え、昭和に入ると近代科学に基づく土木工学は著しい進展を見せます。大規模ダムの建設、近代的頭首工(堰)、分水工、鉄製の水路橋、巨大なパイプライン……。
それが最も緊急に要請されたのは戦後の食糧難への対応でしょう。各地で農業用ダムの建設を伴った近代的大規模水利システムが完成します。何本もあった水路は統合され新たなコンクリートの導水路に、木組みであった堰も鉄製ゲートによる頭首工に生まれ変わります。さらに八郎潟、児島湾などで実施された大型の干拓事業は、食糧増産、雇用促進、地域振興等、戦後の経済にも絶大な貢献を果たしました。

高度経済成長の礎

ニュータウンの中を流れる愛知用水。この地区の水道も供給している。

とりわけ、「戦後の日本を創った」と言われるのは昭和32年に始まる愛知用水プロジェクト。
日本が初めて世界銀行からの借り入れを受け、アメリカの大型土木機械や先進的工法を導入した国をあげての大事業でした。
愛知用水は、東海の27市町、特に貧水に苦しむ知多半島の山野を田園地帯に変貌させるとともに、鉄鋼業などの工業用水の供給、また、水道用水として丘陵地の都市開発にも大きな役割を果たしました。
世界銀行はこの事業を通して、戦後の混乱期にあった日本の事業管理能力、返済能力、技術力等を試していたといいます。この後、世界銀行は新幹線や首都高速道路の建設にも積極的に金を投じています。
愛知用水は、世界の奇跡といわれた高度経済成長の起爆剤ともなり、このプロジェクトで培われた様々な土木技術は、豊川用水、群馬用水、香川用水などにも受け継がれ、全国各地で大規模な水利システムを築き上げていくことになります。

こうした農業農村の近代化は、食料生産を損なうことなく農村の労働力を大量に都市へ供給し、日本の高度経済成長の礎となったのです。