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第一章 第二章 第三章 「農」が造った国土
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第四章
水争いと「農」の秩序  水をめぐる争い ─── いわば集落全員の生死をかけた争いです。待っても待っても雨は降らず、太陽がジリジリと照りつけます。土にヒビが入って稲も枯れ始めます。どこかの集落が耐え切れず、夜中に上流の堰を壊しに行きました。村中が殺気立ちます。人々は手にカマやクワを持って集まり、戦国時代さながらに川を挟んでの乱闘が始まります。

 そう昔のことではありません。犬上川(滋賀県)では昭和7年、「農民400余名竹ヤリかざしてにらみあう」と新聞でも大きなニュースになりました。10数名の犠牲者を出し、300人あまりの警官隊が3日かけてようやく騒ぎが収まりました。道徳や理屈などで解決できる問題ではなかったのです。

  あるいは、高時川(滋賀県)では、極端な渇水に見舞われたときは、下流の村人数百人が白装束に身を包んで上流の堰を壊しにいくという、戦国時代から昭和18年まで続いた「餅ノ井落し」があります。これは流血の惨事を避けるための農民の知恵であり、400年間の間に儀式化していったものでしょう。

  つまり、水田における太陽エネルギーの変換は、面積だけでなく、水の量によっても左右されることになるのです。しかし、この水は多すぎても困ります。 渇水にも増してたいへんだったのは洪水時でした。特に琵琶湖は約460本もの川が流れ込む全国一の水瓶。しかも、出口は瀬田川一本だけ。大雨が降ると琵琶湖の水かさが増し周辺数千ha、時には1万haの農地が何度となく水の底に沈みました。といって、流れを良くするために瀬田川の川底を掘れば、今度は下流の大阪に洪水が押しよせます。推古天皇(623年)以来、明治元年まで、記録に残る淀川の洪水は239回。ほぼ5年に1度の割で起こっています。

 水ばかりではありません。山林も大きなエネルギー源ですから、その境界や使用をめぐっては大きな争いとなりました。例えば、秀吉の時代ですが、滋賀県日野町周辺の山争いは、何十年と続き、遂に江戸時代、真っ赤になるまで焼かれた鉄の斧を長く手に持っていたほうが勝ちという方法で決着をつけています。

 上のような記録は、多かれ少なかれどこの村でも残っています。何百年におよぶ水争いや山争いを通して、様々な約束事ができたり、証文が交わされたりして、村々の「農」をめぐる秩序ができ上がっていったのです。現在では、このような争いはみられませんが、それは過去にこうした厳しい秩序ができ上がってきたからなのです。

  したがって、この秩序は、水利システムをコンピューターで操作する現在でも変わっていません。今でも大渇水になると、江戸時代の古文書の証文にしたがって水を分けたりする地域はたくさんあります。
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